自然素材と廃材と素材と道具と、おもちゃ

子どもが遊びに使う材料としてそれぞれどんなところが良いのだろうということを考えてみました。

自然素材
どんぐりや木の枝、木の実、花、石、水、土、葉っぱ、貝殻など、人の手が加わらずにできたもの。

廃材
使い終えた牛乳パック、食べ物の容器、ラップの芯、空き箱など、ある用途で使われていたものが本来の役目を終えたもの。

素材
テープ、リボン、紙、毛糸、布、紙皿など、目的に合わせて活用する材料。

道具
ハサミ、糊、クレヨンなど、加工のために必要なツール。

おもちゃ
ここではクルテクにあるおもちゃに限定。木のおもちゃ。積み木やお人形など。

いずれも『自主的な遊びを中心とした保育』には欠かせないと思います。

自然素材は、自分たちも自然の一部であるというということが最もよく感じられる素材だと思います。季節によって目にするものが移り変わっていきます。適した場所、季節であれば、手に入れることは簡単です。採取の楽しみがあります。全く同じものはなくて、どれも特徴がある、人と同じ。手触りを心地よく感じられる。見立てやすい。美しい。人と共存するもの、人の智を超えたものとして、幼少期から身近であって欲しいと思います。

廃材は、なんと言っても大胆に使えることが利点だと思います。もったいない…が頭の片隅にあると勢いのある子どもの活動に制限がかかってしまいます。低コストに対する満足感は高いです。また、本来の目的のためにあらゆる工夫がされた素材なので遊び道具としてもその特徴は生かされます。牛乳パックなど軽くてハサミで切れるのに丈夫で防水性が高いことなど、便利です。

素材と道具は、自分の手を動かしてイメージを表現したり、実験してなにかに気づく活動に欠かせません。何にでも生まれ変わるものを変えるための手段として、人が考え出してきた道具を使いこなすことは人が地球で社会生活を始めたときからずっとあって、とても自然な活動だと思います。

おもちゃについては、個人的には上記の材料に比較すると最も使われ方が消極的なのではないかと感じています。自然素材や廃材、素材は遊びの中でよく使われていますが、おもちゃは少ないんだなと思うことが多いです。
理由のひとつはお金をかけるということに対する背徳感(実際に予算を割り振るのが難しいという現実もあります)でしょうか。低コストで大きな結果を出すことは何に対しても高く評価されていると思います。でも人を育てるのはお商売ではないですよね。もちろん人材も、ちゃんとコストをかけたことを誇れるような価値観が常識になると良いなと思います。
それから工夫の余地に対する見解。他の素材がゼロベースなのに対して、ある程度まで手が加わっていることから手抜きの印象があるのではないかと思います。それは大人からの視点でしょうか。子どもからすると遊びに用いる時にどんぐりも積み木も「おもしろそう、遊びたい」という点で差はないと感じます。

能動的なばかりが子どもの活動ではなくて、受けることも大事な活動です。スロープをビー玉が転がるのを飽きず眺めているうちに心が落ち着くこと、または物理的な発見をしている子がいるかもしれません。これは正確につくられたおもちゃでなくてはできません。おもちゃは子どもでは、また先生でもできないところまで職人が仕上げているので、思い切り遊んでもなかなか壊れません。そして美しい。ストレスなく遊べることは重要です。

子どもの活動を多角的に眺めるということなのかと思います。『気づく』は泥団子からも、レンガ積み木からも得られます。得られるものが違うので片寄らないことが大切です。
『社会性』をともに造形するところに求めることもあれば、おままごとの中で再現されることもあります。造形はゼロベースの素材から、おままごとは今ある社会の縮小から、スタート時点が違うので揃えるものも違ってきます。遊びごとにベストの材料があり、どれも幼児期にしっかり経験して欲しいものです。おもちゃが横並びの選択肢に入ってくると子どもの活動が豊かになると考えています。

保育方針は「これ」という統一見解は園においてとても大切。でも「柔軟性があったほうがおもしろいよね、おもしろいものはいっぱいあるよね」というお話を、ある園長先生と熱く談義する機会がありました。そんなことから感じたことでした。