ひとりがすき、わかる私も好き

ミュンヘンの幼稚園を見学した時、この場面が印象に残りました。時間が経つにつれて、この場面が一番好きであることを意識するようになりました。

私は、一人でいる時間が好きです。
人といるときは、話していることが多くなります。誰かと一緒にいるのにシーンとしていることに気詰まりを感じてしまうのだと思います。
おしゃべりが止まらなくて、もっとこの人といつまでもお話ししていたいと思うことのほうが多いのですが、時々はスムーズにおしゃべりが進むよう意識的に適した話題を探すこともあります。
お互い黙っていても気を張らない人間関係は、助かります。

一人でいると、思考が深まります。私の頭の中はいつも何か音楽が流れていたり、ひとり言を言っています。無言で(?)考えていることもあります。楽しくて、退屈とか寂しいと感じることはあまりないです。

ある程度の年齢までは、一人でいることを心地良く感じることができにくい集団の中にいます。ありがちに、とりあえずどこかのグループに所属するよう努力していました。組織から離れて、一人でいたければいられるようになったことは自分にとっては自由の獲得です。旅、山登り、ごはん、好きな人と一緒にと同じくらい、ひとりでも好きです。

幼稚園のお部屋で、ドールハウスでゆっくり一人で遊んでいる女の子の姿は、私が一人を楽しんでいるときと似ているように感じました。頭の中でたくさんお話ししているのではないかな。

主体性。主体的に遊ぶ。
保育のキーワードになってきています。自ら課題を求め解決する、とか。とかとか。
そうはいっても実際の様子を見ていてハテナと思うことが時々ありました。自分だったらこの保育受けたいかと言うとそうでもないかもと。なぜだろう。それが、ドイツの保育を見てわかった気がしました。
日本の主な保育スタイルで、主体性など言っても、本当の意味で「個」を大切にすることができているのでしょうか。「個」は、日本的には、集団不適応でありわがままです。個を大切にと言っても、みんなと同じことを自分のスタイルで楽しもうとしているにすぎないのでは、と感じました。テーマは決まっている。そのテーマに対してどのように取り組むかは自分で見つけて自分で関わっていこうね、というスタイル。そのテーマそのものに気が乗らなかった場合はどうするのだろう。

興味を持っていなかったことに対して、遊びを通して主体的に関わらせ、新たに興味を持ち学ぶきっかけづくりをしていくことを目指す。そうして、いろんなことを知っていく。うん、とても大切なことと思う。
それは興味をもてません、というのはなかなか難しい。あれもこれもバランス良く。食事もそう。だから豊かとも言えるのですが。これは気持ちが向かないということを許すのはなかなかの勇気が必要だし、正しいかどうかもわからないです。自分としてはそれは叶うなら許される余地が欲しいです。

ひとりがすき=やりたくないことはやらなくていい、を願っているのではありません。
大きな流れ、社会が望む圧力的なものがあって、それはどうしても「集団に適応すること」「皆がバランス良くいろんなことができること」になってしまっていることに対して、「私という個人はこうである」ということを主張して良い、それが認められると嬉しい、ということです。

このドールハウスの女の子からは、その日のテーマ活動が嫌だったわけではないと思うけれど、本当に自分の決定を大切にされた伸びやかさを感じました。それも、大げさなことではなく、これが日常的であることに感動したのだと思います。ひとりが好き、を楽しんで良いんだ、と励まされたシーンでした。