標準のこと、それはなんだろう、と

自分の子どもの発達に対してプロからこんなことを言われた、というお話しを、店内でお聞きすることが時々あります。いつもあまり上手なことが言えず…思ったままをまとめてみます。

プロの方には『標準』があって、そのお子さんがそこからどれだけ離れているかということを指摘するわけです。で、それを聞く方はとても心配になっちゃう。標準から離れてて、この子は将来幸せに生きることができるのだろうか、と、子どもの幸せを願うあまり心配でたまらなくなる。またこの子を取り囲む人に迷惑をかけないか、それも心配。そして、自分に何かが足りなかったから我が子が標準から離れちゃったんだと、だからもっと自分も努力しなきゃいけないし、子どもにも頑張ってもらわないといけない、と思う。

私は、まず、その標準というものがとても身勝手に感じます。その標準って、本人にとってはそんなに困るものじゃなくて、周りの都合で決められていると思う。そんなの、受け入れる人次第で距離は変えられる。つまり標準というものはもっと幅広いのではないか。次に、仮に大多数が当てはまる標準から遠いところにいたとして、どうして標準に近づけないといけないか?人はみな持ち物が違う。自分の持ち物で幸せに生きることはできないのか?なぜ持っていないものを指摘して持たせようとするか?お金がなくてもお金を使わない快適な幸せを知っている人もいる。その人に、もっとお金を持ってお金を使う幸せを求めなさい、って、言う?そもそもの指摘が、不要なことだと思う。

それでも、言われる、指摘はされる。そしたら、もう、心配だけど心配ばかりしないで、その子のことよーく見て、考えて、それに向き合っている自分にもじっくり向きあって、何をするべきか、冷静に見極める。本当にこの部分の関わりがもうちょっとあってもいいかなと気づいたら、そうしてあげるのもいいと思います。その指摘が局所的で本質を突いていないと思ったら、自分だけは子どもを信じて指摘をきにしないことにしてもいいと思う。というのは、そういうこともやってきたから。学校の先生にお宅の子どもはこうですと言われて、その時は自分を責め子どもを責めたのですが、一方で先生の言うことに疑問もありました。それで他に子どものことを見ている人にも聞いてみて、いくつかの意見を聞いて、先生はプロかもしれないけれどちゃんと子どもを見ていないと思った。だから教頭先生や教務主任の先生までひとっ飛びして、担任の先生の言うことが納得出来ないと掛け合ったこともあります。親ばかとかモンスターペアレントとか、いろいろありますがそれも覚悟で。言われっぱなしにしてないで、簡単に納得しないで、その子がそうであることを親である自分がそれでいいと思ったら、それを主張するのもアリだと思います。

そして、よくわからない標準志向から誰かが守ってもらいながら、子どもは、自分が好きで自分に自信が持てる子、自分の考えがあり自分で判断できる子、人の思いも理解しようとする子、そんな子に育って欲しいと思います。今の教育制度は、伸ばすよりむしろ潰す、と感じることが多い。潰されず、がんばろう。うーん、書いてみてもいまいちまとまらなかったですが、自分の子育ての折々に、またお話を伺うたびに、思うことです。