過干渉でも放任でもなく

PB040006

アレッサンドラさんのワークを機会に教育者の役割を考えています。
アートについては、私の知っている範囲でみるのは、『しっかり教える』または『子どもの心のままに』です。しっかり教えるというのは、絵画製作の技術を教えてそれらを用いた作品を仕上げること。子どもの心のままにと言う方針の下では、材料をそろえて子どもたちがそれを使って自由に表現しています。

今回のワークはそのどちらとも違ったように感じました。それぞれ含まれているので違うわけではないのですが、アレッサンドラさんの動き方から、アトリエスタってこういうことを言うのかなと想像しました。

ワークの流れはモンテッソーリ的でした。モンテッソーリで提供と言われる【やって見せ】を最初に、静かに行います。こうするということを言わず、見せるだけ。これはしっかり教えるとは違うように思います。しかし見ることによって確実に動機づけられます。

自分なりに始めてみる。静かだけれど目が届いていて、助けて欲しいときにサッと適切な関わりがされる。ここは心のままに、とも少し違う感じがしたのです。何が違うかというと、その関わりが活動を次のステップにそっと押しあげていること。心のままを見守るだけなら割と誰でもできると思うのです。でも教育者であるならそこに次の育ちを求めるのが使命ではないでしょうか。教育者の意図通りではなく、それでいて必要な育ちを支える関わりってかなりの技量が求められると思います。例えばモンテッソーリ教師の資格は仕事をしながら2年ほど養成校に通います。人を育てるというのは根気がいることですよね。

身近なところでアート教育というと、作品の完成が終着点のように見えます。今回のワークは、それより経過の方を重要視していると思いました。シュタイナーのにじみ絵なんかもそうですが、子どもがおもしろがってどんどん色を重ね、最後は全面茶色に塗りつぶして終わる、ちょっとがっかり、と。でも全部茶色になってもその途中の色のにじみや重なりを楽しんでいたのだからそれでいいのです、と聞いたときと同じように感じました。1歳〜2歳の活動で、大きめの描くための道具を持って全身で、歩いたりしながら描くことを楽しむ、また、音楽に合わせて線を描いたりすると聞き、こういう活動は、できあがりよりその途中だなと思うのです。完成とか作品からもう少し自由になれたらいいのかな。

イタリアで0歳から6歳の育ちにしっかりお金がかけられていると聞きました。特に教育者の人材育成に対してということでした。保育料の負担とか、建物とかおもちゃとか、教師の給与とか、それ以上に教育者を育てることにかけた方が豊かな社会にたどり着くように思います。保育に予算を取りました…保育の何に?何を目的として?その目的のための手段は?
そんなことを考えています。

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