きれいであること

教育者である両親のもとで育ち、その姿を見ながら、さらに勧められてきたこともあって、進路の話になれば当然のように教職を目指していました。実際、進んだ学部は教育学部でしたし、経験のある仕事も「先生」です。

10代後半からの進路を決めていく時期に、希望に沿って進路を決めたようでいて、実は思い込みに支配されていたのではないかという疑いは消えません。先生をやっている時におもちゃに出会い、その魅力の虜になってしまったきっかけは、おもちゃの持つ教育的役割以上に、その美しさに対してでした。

ヨーロッパの木のおもちゃには、日本とはタイプの違う美しさがあります。特に特徴的なのは色使いです。見たことのない色でした。それから形、仕上げ、どれを見てもきれいだと思いました。なんと、おもちゃの美しさを知るまで、自分が美しいものが好きであることの自覚がありませんでした。出会いが、表立って意識してこなかった部分を表面化させることがあるのですね。

やがて、この美しさはどんな歴史の上に確立してきたものなのだろうということをよく考えるようになりました。日本と、美に対する文化比較もおもしろいと思います。

ヨーロッパを訪れて、町並みがきれいであることに衝撃を受けました。日本の都市部の風景は、広告の嵐が殺風景と感じます。他よりも目立たないと買ってもらえないという主張の張り合いで、電飾、色、大きさなど、調和というものを意識していない。同調圧力は重めの社会性だと思いますが、経済活動になると節操がないというか。ヨーロッパでの印象はちょうど逆で、個人主義だが景観を守ることについてはルールに従う。何がより大切か。アートへの態度が教育、社会、経済にも現れてくるように思うのです。

なんてことが興味深く、今進路を選ぶ状況にあるなら、アートを軸にした歴史や社会学、そして教育学を勉強したいなと。10代で進路を選ぶときには気づきもしなかった自分の興味関心を知りました。

イタリア芸術教育ワークショップを開催して、アートは個人の自由を保証しながら調和するコミュニティを築くものであることを体感しました。センスを育てることは、誰もが居心地良い社会をつくることに深く関わるような気がします。なんだかんだと教育に戻ってきてしまい、思いがけない落とし所になってしまいましたが、美しいおもちゃと、その機能美の遊びを通して、育ちと社会づくりに貢献することを目指していきたいなと思っています。